01月07日

質問者さん

槙野さん、明けましておめでとうございます。 今年の冬は普段より暖かく、身動きが取れぬほど寒さが怖く痛い日もなく助かっています。 年末年始バーに駆け込みでもう一杯頂きに来ましたが、閉店でしたらご遠慮なくお見捨ておきください。 私は楽しかったこと・うれしかったことを共有することに抵抗を覚えますが、それを辞めたい旨になります。 大きな喜びや大きな体験をすればするほど、その後の周囲との人付き合いで心身がこわばり、それにまつわる発言が怖くなり、黙ってしまいます。例えば昨年、西部アメリカ旅行に出かけ、いろんなものを見て、人とのかかわりも体験したのに、それを周囲の方に伝えるのが億劫で、気が引けて、実際に体調が悪くなるくらい嫌な気持ちでした。これは一例で、実はこれまでの人生ずっとそうだった気がします。 昔自分が楽しんでいるところを見せると、引き換えに罪悪感を抱かなくてはならないと学んだのかもしれません。それが三十路超えても継続しているのかもしれません。 うまく伝えられないのが嫌だったり、自分の大切な体験を、私自身がチープな言語化して話題のおつまみに切り下げるのが嫌なのかもしれません。行った自分が、行ってない相手に体験を話すことが、自慢話をしているような・マウント取りをしているかのような居心地の悪さを感じるのかもしれません。私がうれしく楽しい話をすることが、必ずしも相手の気を悪くしないとは限らないと感じるからかもしれません。 わたしはこのままでは、人生の課題を成し遂げても、大きな喜びを得ても、誰ともシェアをできません。実際心理的関わりが苦手なので、シェアできなくて元々なのですが、どうもこのままだと私は体調を崩すので、仕切り直したいです。 私はまだ若く、すぐ興奮するたちなのです。本当は喜怒哀楽が激しいのに、それを比喩ではなく死ぬ気で抑えているせいで、脳みそが常にオーバーヒート気味でぼーっとしています。その私の(抑える)性質のおかげで得たものもあるでしょうが、この性質で得られたものに大した価値を感じられなくなってしまいました。完全に倒錯しています。 なんとなく、槙野さんならこんな心理状態を一切合切扱ったことがありません、ということはないのではないかと思い、書かせていただきました。勝手にぶちまけてしまってすみません。 最後に余談として、楽しかった話をシェアします。アメリカ西部の切りっぱなし大地は規格外で、多分我々が今後どんなに時間を掛けたとしても不変な存在です。大きなものが見たくなったら真っ先にお勧めします。野生動物も平然とその辺にいます、グランドキャニオンの崖っぷちリスは私の脳内でお気に入りシーンとなっています。対照的に消費主義のラスベガス(西部巡りの基点になることが多い)のホテルの窓から見えた球体看板がかわいく一晩中癒しとなったこと、バスドライバーと仲良くしてもらい一緒に歌ったこと・そしてその心のつながりを私がうまく扱えなかったこと、そんな疲労困憊でベガスをふらついたら案の定スられて合わせ技で落ち込んだこと、でも結果助けようとしてくれる他人がいたことなど。 これ書いてて気づきましたが、いろんな体験をすることを、自身のキャパオーバーだと一蹴することはできないです。

01月07日

槙野 さやか

槙野 さやかさん

はーい、まだやっていますよ。飲んでいってくださいな。 なるほど、質問者さんは行動的で感情豊かだけれど、そのシェアが苦手なんですね。そんな感じの人、私のまわりにも昔、いました。最近どう?って聞くと、独特のためらいを見せる。それから淡々と、たとえば「アメリカに行った」と言う。詳しく聞かせてよーとねだると、なんだか困った顔をする。そのはにかみが何とも可愛いなと思ったことをよく覚えています。たしかに彼女は若かった。若くていろいろなことを気にしていました。 私はものすごいおしゃべりで、何でもしゃべってなお足りず毎週フィクションを書いていますが、そのような図太い人間とは異なる種類の輝きが、裡に秘めがちな人にはあるように思います。 気が向いたら誰かにそれをそっと見せてあげてください。 自慢とかマウント取りとか、そんなわけのわからない(本当にわからない。自分の体験と他人の体験が違うのは当たり前も当たり前、それ以外の何を想定するというのか)受け取り方をする人ばかりではありません。 質問者さんの嬉しかった話、楽しかった話を聞きたい人はたくさんいるはずです。変な反応をする人もいるかもしれませんが、まあこの世にはスリもいれば一緒に歌ってくれる人もいる、くらいのことです。 実際のところ、質問者さんのアメリカ旅行の話はとても魅力的でした。「切りっぱなし」の大地、ギラギラの消費礼賛都市、やさしかったりずるかったりする人々。いい旅行だったんだろうな。 私はニューヨークとロサンゼルス近郊しか知らず、そんなのはアメリカに行ったと言っていいのかわからないようなものですから、いつかそんな景色を見てみたいものです。アリゾナの砂漠に好きな美術家の作品があるから、そのあたりを中心にしようかな。 それでは、帰り道はお気をつけて。

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槙野 さやか

槙野 さやか

短編ブログ『傘をひらいて、空を』https://t.co/54T5XhoWkA 、感想文と読書会(https://t.co/N3Pva2w9ZX →Radiotalk #小さな鳥たちの読書会)。ときどき商業媒体の依頼原稿を書いています。 連絡先 [email protected]

槙野 さやかさんが

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01月07日

槙野さん、明けましておめでとうございます。 今年の冬は普段より暖かく、身動きが取れぬほど寒さが怖く痛い日もなく助かっています。 年末年始バーに駆け込みでもう一杯頂きに来ましたが、閉店でしたらご遠慮なくお見捨ておきください。 私は楽しかったこと・うれしかったことを共有することに抵抗を覚えますが、それを辞めたい旨になります。 大きな喜びや大きな体験をすればするほど、その後の周囲との人付き合いで心身がこわばり、それにまつわる発言が怖くなり、黙ってしまいます。例えば昨年、西部アメリカ旅行に出かけ、いろんなものを見て、人とのかかわりも体験したのに、それを周囲の方に伝えるのが億劫で、気が引けて、実際に体調が悪くなるくらい嫌な気持ちでした。これは一例で、実はこれまでの人生ずっとそうだった気がします。 昔自分が楽しんでいるところを見せると、引き換えに罪悪感を抱かなくてはならないと学んだのかもしれません。それが三十路超えても継続しているのかもしれません。 うまく伝えられないのが嫌だったり、自分の大切な体験を、私自身がチープな言語化して話題のおつまみに切り下げるのが嫌なのかもしれません。行った自分が、行ってない相手に体験を話すことが、自慢話をしているような・マウント取りをしているかのような居心地の悪さを感じるのかもしれません。私がうれしく楽しい話をすることが、必ずしも相手の気を悪くしないとは限らないと感じるからかもしれません。 わたしはこのままでは、人生の課題を成し遂げても、大きな喜びを得ても、誰ともシェアをできません。実際心理的関わりが苦手なので、シェアできなくて元々なのですが、どうもこのままだと私は体調を崩すので、仕切り直したいです。 私はまだ若く、すぐ興奮するたちなのです。本当は喜怒哀楽が激しいのに、それを比喩ではなく死ぬ気で抑えているせいで、脳みそが常にオーバーヒート気味でぼーっとしています。その私の(抑える)性質のおかげで得たものもあるでしょうが、この性質で得られたものに大した価値を感じられなくなってしまいました。完全に倒錯しています。 なんとなく、槙野さんならこんな心理状態を一切合切扱ったことがありません、ということはないのではないかと思い、書かせていただきました。勝手にぶちまけてしまってすみません。 最後に余談として、楽しかった話をシェアします。アメリカ西部の切りっぱなし大地は規格外で、多分我々が今後どんなに時間を掛けたとしても不変な存在です。大きなものが見たくなったら真っ先にお勧めします。野生動物も平然とその辺にいます、グランドキャニオンの崖っぷちリスは私の脳内でお気に入りシーンとなっています。対照的に消費主義のラスベガス(西部巡りの基点になることが多い)のホテルの窓から見えた球体看板がかわいく一晩中癒しとなったこと、バスドライバーと仲良くしてもらい一緒に歌ったこと・そしてその心のつながりを私がうまく扱えなかったこと、そんな疲労困憊でベガスをふらついたら案の定スられて合わせ技で落ち込んだこと、でも結果助けようとしてくれる他人がいたことなど。 これ書いてて気づきましたが、いろんな体験をすることを、自身のキャパオーバーだと一蹴することはできないです。

01月07日

槙野さんこんばんは。 休日は何をして過ごされますか。頻繁に外出されたりするのでしょうか。

01月06日

槙野さんこんにちは。うちでは年越しにそばが出て、お正月一応おせちを買ってお雑煮を作りますが、あまり重視されていないです。それより大事なのは、12月に皆が新しい服を買って年末年始に自慢しあうことです。子供の時は母に連れられて買ってもらうのが楽しみでした。祖父母は必ず髪も切っていました。私もできるだけ美容院に行きます。槙野さんはそういう新年の儀式は何かありますか?