先程送った質問に誤りがあったので改めて送らせていただきます。
クロロホルムが分からなくなってしまいました。(判例の事案では死亡原因は不明ですが、ここでは第1行為によって死亡したものとします)
早すぎた構成要件の実現の場面では、第1行為の時点で殺人罪の実行の着手があったといえるかを議論すると思うのですが、クロロホルムを嗅がされたことで被害者は死亡しているので客観的には殺人罪の実行行為性は認められるはずです。実行行為性が認められるのに''客観的構成要件の段階で''実行の着手を議論する意味があるのか分からなくなってしまいました。
そのうえで、そもそもなぜ実行の着手を議論するのかといえば、第1行為の時点での実行の着手を肯定することで、第1行為を行うことの認識認容をもって殺人罪の故意を認めることができるからであるはずです。なので故意の段階で、認識認容の内容として実行の着手(計画上の第1行為と第2行為の一体性)を議論するなら理解できるのですが、なぜ構成要件の段階で議論するのでしょうか。
ご教示いただけますと幸いです。

犬さん
第一行為だけの危険性で実行の着手を認めうる場合には、故意の段階で問題にするという処理を提案するものとして、反町刑法があるよ
それがわかりいいならそれでいいんじゃないかな
理論的にはどうだろう、ここからは私見だけど、これとは異なる立場で考えているよ
故意とは犯罪事実(すなわち、(異なる見解はあるものの一般的には、)客観的構成要件に該当する"具体的事実")の認識認容だ。また、行為の危険性は主観を考慮しなければ正確にはわからない。それらを踏まえて、一連の行為論による場合の認識対象は、「一連の行為としての危険性を有する行為」であるはず
ところが、答案上、構成要件のレベルでは「第一行為単体としての危険性を有する行為」を指摘して通過してきているとすれば、故意のレベルで、急にその認識対象をズラすことになる
これはおかしい気がするけどどうだろう
言い換えれば
その犯罪の成立との関係で、
実行行為レベルでは「第一行為単体」しか言っていない
他方で、実行行為に該当する具体的事実をそのまま認識対象とする故意レベルでは「一連の行為」としてみる
このズレが気になるかどうか
甲がやったのは「第一行為」だから実行行為ok
甲が認識していたのは「一連の行為」だから故意ok
このズレはおかしいという、伝わるかな
(また、錯誤論は因果関係についてしか言わないのが定番で実行行為については言わないよね)
犯罪論体系からすれば、実行行為をクリアした具体的事実だけが故意に進めるはずが、実行行為をクリアしてきていない事実で故意をクリアさせるのはおかしいんじゃないか