先日、東浩紀さんがXのポストで次のように発言されました。
「自然科学や社会科学は記号外の世界を扱うけど、人文学はほぼ完全に記号のなかに閉じているので、ある意味でもっともAIに適している」。
https://x.com/hazuma/status/1841894805468807591
この「人文学はほぼ完全に記号のなかに閉じている」という指摘は、図らずも中川さんの本にかんする認識とパラレルかと思い慄然としました。人文系の方でもこのように考えている方はいらっしゃったのですね(それとも半ば常識だったのでしょうか)。また東さんは「哲学や文学の古典読解なるものの大半は先行研究のマッシュアップ(組み合わせとちょっとした改良)なので、じつはAIによって代替可能だと思う。裏返せば、哲学や文学研究はこれからはそうではないものを目指さなければならない」とも発言されています。ますます中川さんの慧眼ぶりに驚くのですが、このような東さんの発言を受けて何か感想などあれば教えてください。よろしくお願いします。
可視光という言葉があるように、我々の目にはごく限られた範囲の光しか入ってこない。
音域も同じで、我々の耳には限られた音域の音しか入ってこない。
つまり、我々は世界の全体など知らず、ごく限られた狭い世界で生きているわけです。
ダークマターとかダークエネルギーの話もそうで、この説が正しいとすると、我々が知覚できるのは宇宙のほんの数%だけということになる。
世界的なベストセラーになった『三体』に「狙撃手と農場主」の話が出てきます。検索すれば、すぐに出てきますので、ご存じない方は調べてほしいのですが、ここには農場を全宇宙と勘違いした「七面鳥の科学者」が出てきます。
『三体』が世界中のインテリから歓迎されたのは、「我々もまた、限られた世界を全宇宙と勘違いしている愚かな七面鳥の科学者と同じなんだ」という現実を冷静に受け止める覚悟が、すでに多くのインテリの間でできていたからだと思います。
東さんの真意はわかりませんが、ご紹介のポストからは、同じような覚悟を感じますね。