浅い文章と浅い考えですみません。
なんか子供や子孫のこと考えると苦しくなります
自分が教育頑張って子供を心優しくて人道的な人間にしたとしても年月が経って自分のひ孫やその先の子孫に腹黒い人とか浮気性な人、いじめっ子、ましてや犯罪者などが出たりして、人を傷つけたらどうしようってなります
現にそういう人たちは誰かの孫な訳だったりするわけだし、おじいちゃんおばあちゃんはそんな孫を可愛がったりしてたんですよね、そんな事実が悲しくなります、この世界を一層好きじゃなくします
あなたはどう思いますか?
すみません、変な文章で。意味不明だったら申し訳ありません、伝わりましたかね。はっきり言って僕は気が触れてます。理解できなかったら全然大丈夫です。

スタバさん
かなり深い問いだと思いますよ。
恐らくあなたは愛や善意、倫理といったものの力を信じているのではないでしょうか。
それを前提として、僕の愛への失望と絡めて回答してみようと思います。
人を大切にすれば、その人もまた誰かを大切にすることができる。愛された人は人を愛せるようになる。そうして善意は連鎖していくのだという"物語"があります。
自覚されずとも、無意識にそういった"愛の物語"が人々の中を流れている。
程度の差こそあれ、多くの人は愛の物語を信じています。
映画や小説の愛は偉大で、ありとあらゆる物を超越しますよね。
「犯罪者にも祖父母がいた、そして彼らは愛されていた」という事実が苦しいのは、それがその物語と矛盾するからではないでしょうか。
その人にも愛情を注いだ人がいたはずで、大切に育てようとした人がいたはずなのにどうしてなんだと、僕たちの中の愛の物語は揺らぐ。
人が誰かを傷つけるという事実は「悪人がいる」ということ以上に「愛や善意だけでは人間を決定できない」という物語の崩壊の意味を帯びてきます。
ブルデューやフーコーの文脈を借りるまでもなく、人というのは無数の構成要素によって形作られていて、それらをコントロールすることは僕たちには不可能です。
しかし僕たちは愛や善意を信仰するあまり、あなたもそうしようと語ったように、それらを行使して人格形成のコントロールを試みることがあります。
学校、時代、友人、貧富、文化といった要素に並ぶ一つでしかない、たかだか愛や善意を用いて。
そしてこの場合、子育ての失敗は、愛や善意が役に立たなかったという無力感を僕たちに植え付けることになります。
人格形成の一要素でしかない愛や善意を信じてしまった罰として、悲しみを引き受けなればなりません。
これらの対象方法は至って単純で、愛や善意の物語を捨てて無力さを実感し、その責任を放棄することなのではないでしょうか。
子や孫はどこまでもいっても他人で、その人格形成を操ることはできないのだと悟るしかないのです。
他人である子供を受け入れ、個人として尊重する他にあなたの苦しみをどうにかすることはできないでしょう。
ただ僕は、愛を信じていない合理的な大人よりも愛を信じてどうにもならない子や孫の運命に絶望する大人の方が好きですし、多くの人もそうだと思います。
その苦しさは、愛を失っていない証だと思って大切にするのが良いとも思います。
最後になりますが、まず、前半の洞察と比べ、後半は尻すぼみで安易な励ましに向かう文章になってしまい申し訳ありません。僕という人間は愛について、つい最近に失望してしまったものでそれが前面出てしまった結果です。
正直僕は自分の子や孫が他人を傷つけようが、残虐に殺そうが何とも思わないでしょう。愛や善意を施したところで、こんな世界にどう立ち向かえるのだと少しばかり不貞腐れるかもしれませんがその程度です。ですから、あなたの痛みや苦しみについて考えるためには、情緒をかなり拡大しなければなりませんでした。その過程でやはり、僕とあなたとのどうしようもないくらいの人間としての出来の差を感じました。なぜ僕なんかにこの質問を送ったのでしょうか。正直これは、僕なんかに尋ねたあなたの責任もありますから、あなたは陰湿なこの回答を受け取らなければなりません。