日本の法はアメリカなどの英米法、ドイツやフランスの大陸法から影響を受けているものが多く、法の研究においても研究の実益(理論的な収穫などを含む)よりも、とにかく自国の法や法制史に自信がないのを埋めるために他国と比較して云々かんぬんしているイメージがあるのですが(誤ったイメージでしたら申し訳ありません)なぜ研究者や、大学院ではそういった指導がなされがちなのでしょうか?比較することの利益は理解していますが、本来法とは、人間が秩序を保つ等の目的で設定するものなわけですから、実際に何が起こっている、起こった、起こりそうか(現在・過去・未来)に対して正しい、あるいは適切かどうかを考慮して立法、司法上の運用がなされるものですよね?で、あれば、それに対して現在と法が適切かどうかなどの理論的研究を行うのが本来の筋であって、比較してどうこうというのは(意義ある範囲で)補助的に行うべきだと考えているのですが、いかがでしょうか?比較法を専門としているのであれば何も問題ないのですが、まずは他国の法律を学んで比較して自国の立ち位置を確認しましょうというのはいまいち納得できないという立場です。それか、自国の法律は学部で学んでいきているだろうから大学院では「その前提のもとに」他国と比較してさらに理解を深めなさいということなのでしょうか?

Yukio Okitsuさん
私は質問者さんのご意見に賛成です。身も蓋もないことをいえば、外国のことで日本に紹介されていない判例・立法・学説などを日本語にして紹介すれば、それで論文になるのに対し、日本のことは日本語で情報が手に入るので、それに付加価値を付けて論文にするには、ただ紹介するだけでは不十分で、そこに自分なりの分析を加えなければならず、そのほうが知的作業としての難度が高い、という事情はあるように思います。いいかえれば、自国法の研究のほうが難しく、法学部や法科大学院で学んだ程度の知識では、自国法についてオリジナルな分析をするには不十分です。
だからこそ、研究大学院で自国法研究の指導をすべきだとは思いますが、そのためのメソッドも模範例も確立されておらず、先行研究が外国法研究ばかりなので、まずは外国法研究をやるべきだという固定観念が形成されてしまっているのではないでしょうか。