最近小論文の授業で優生保護法の話を少しだけ触れられて初めて聞いた言葉だったので、気になり自分なりに調べてみました
調べていくうちに、最初は昔日本だけじゃなくて他の外国も障がい者の方には人権がなかったんだと悲しくなってしまったのですが、
現代の障がい者専用の性風俗をしている方のYouTubeに上がっているインタビュー動画を見ていくうちに、それまで優生保護法は悲しい負の歴史のひとつだと思っていたのに、あって良かったのではないかと思い始めてきました。また、障がい者を何人も殺害して死刑囚になった植松聖の記事など読むと正論に見えてきてしまい(植松聖の意見には賛成では無いですが、なんだか反論できないくて) なんだが自分の中の倫理観が欠如してしまったような気がしてきました。
勿論、公に優生保護法は必要であるとか公に言うつもりは今後もないし自分の中で収めていくつもりです。が、もし来年医学生になった時また医師になった時に、必ず障がい者の方に出会ったり診察する機会があると思うんです。その時、自分が今優生保護法について調べて今思ってることって正しかったんだなとは思いたくもないけど思ってしまいまいそうで怖いというか倫理観がとくに重要視されている医師に向いているのかなと思ってしまいました

鈴村倫衣|医学部・歯学部の受験情報をつぶやきますさん
こういった悩みは、多くの人間の生き方に触れるようになった時代特有の悩みだと考えています。社会構造の問題を自分事に惹きつけて考えすぎてしまうのは現代人の特徴ですね。
私はこのように考えています。
1.我々は流れゆく生命現象の1つの結節点に過ぎない
2.倫理観も法律も時代と共に変わる
世界の様々な物事を知ることができるようになった結果、現代人の多くはすべてを見通せるかのごとき「万能感」を持つようになりました。それに伴って、社会の問題を自分が何とかできるのではないかと考える人が増えました。(私が答えているこの質問箱もその一環です)
しかし、我々は地球上に限っても46億年の中のほんの一瞬、存在しているだけの生物であり、点から点へと生命をつないでいく中で、人間内でその時代に合ったルールを作り、その中で限られた時間を生きています。倫理観は時代と共に変わり、それに伴って法律も変わります。
ご質問主の中で「優生保護法が正しかったのではないか」という疑念が頭をかすめるのも、リベラルな方向に進んだ世の中が、現在経済的にひっ迫している結果、余裕がなくなっているという時代の流れの1つにすぎません。生命現象の流れの中で、今はそういった価値観が優勢であるというだけで、50年後、100年後はまた違った価値観が世の中を覆っているでしょう。
よって、例えば「優生保護法は正しかった」「植松聖の考えに賛同できる」と考えたとしても、それは時代を背景にした上での個人の考えであり、違う時代に生きていれば違う考えを持った可能性が高く、それで個人の責任が軽くなるわけではありませんが、自分という存在を否定することにもならないと考えています。所詮は「自分も結節点である」というのが一番近い実感です。
逆に言えば、植松聖に欠けているのはその視点であり、結節点にすぎない自分の思考を世界で唯一無二のように考えて思い上がった時点で、社会的に破滅するのは当然の帰結だとも思います。
さて、本題です。
医師という仕事は、人間のあらゆる面を見る仕事です。綺麗事ではない部分もたくさん見ると思います。そして、医学は科学でもあるので、論理的に割り切れることを取り扱うのですが、科学的には証明できない不思議な症例も見ると思います。
医師になれば、今のご質問主が抱いているような考えは「机上の空論」に思えるでしょうし、またそうならなければマズいと思っていただければと思います。障害者も含めて様々な患者さんを診る中で、人間という存在の不思議さに気づき、充実した人生を送っていただければと願っています。