noteの記事拝読いたしました。字数制限でコメントが難しかったので長文ですがこちらに。
軍歴証明書もうまく読めないところがありざっくりと目を通させていただいたという程度なのですが、S20.4.20に漢口で迫撃砲第15大隊に合流し第2中隊に配属されていますね。迫撃砲第15大隊はS19.3月にチチハルで編成された後に中支那~南支那に展開していますから、お祖父様は新兵として教育や訓練を受けてから合流したという経緯ではないかと思います。6月に病気で入院とありますが、部隊は6.12に上海を発って満州に入っていますから置いて行かれる形になったのでしょう。2枚目の写真に歩兵第149連隊に転属したことが記載されていますから、以後はそちらの部隊で復員・帰国したのではないでしょうか。ごちゃついていて時系列がよくわかりませんが、原隊に戻る手段がないまま終戦を迎え、満州との連絡もまあ絶望的だったでしょうから支那派遣軍の適当な部隊に転属させられたとかなんでしょうかね?ちなみに迫撃砲第15大隊はその後満州で武装解除してソ連に連行されたようですので、入院が運命の分岐点と言って良いでしょうね。故人の方の真意は図りかねますけれど、一緒に教育や訓練を受け第15大隊に配属された同期兵がシベリア送りになったのだとすれば、何も語らずにおられたのはそのあたりに思うところがあったのかもしれないなあとふと思ったりしました。
迫撃砲第15大隊の部隊略歴についてはアジア歴史資料センターの資料でご確認ください。下記URLの11~12ページ目になります。
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C12122507800#1
歩兵第149連隊はこちらの37~38ページ目にありました。
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C12122439300#1
第15大隊の略歴と軍歴証明書の日付は一致が見られるのに対し、歩兵第149連隊の方は復員までの日付に相違がありますね。
このあたりは詳しく調べないとはっきりしなさそうです。
ちなみに招集された場合、集合場所と期日が指定されていて、そこまでの国鉄等の旅券が召集令状と一緒に渡されていたりしたようです。集合場所でいざ入隊なので、軍歴もそこからがスタートということでそれ以前は記録がないのが普通でしょう。大陸にいた私の祖父の話ですが、大戦末期で支那でも空爆が増えてくると鉄道での移動も夜間の闇に紛れて行わなければならなくなり、移動にも苦労することが増えたそうですよ。また、支那派遣軍が中国の国民政府と停戦したのは9月に入ってからですが、これはまだ100万を超える兵力が健在であったため日中双方とも速やかな復員・帰国で利害が一致したためとも考えられているようですが、満州や南方戦線に比べると極めて迅速かつ安全に復員できていますから、本当に満州に行くか上海に残るかでは天と地の差があったのではないかと思います。