石川啄木の「はてしなき議論の後」という詩の中に、世の中について熱く議論を闘わせても革命の声を上げることがない青年達の姿が書かれています。
①1911年に書かれた詩のようですが、当時の日本は日露戦争に勝って大国の仲間入りをした時期と思います(戦争の人道問題にはここでは触れません)。20世紀前半の日本の中ではかなり豊かな時期だったと思いますが、社会への不満は渦巻いていたのでしょうか。
②熱い議論に冷水を浴びせるような詩ですが、石川啄木は時代から浮いていたのでしょうか。インテリ的な潮流に正面から殴りかかるような作品は歴史の中にぽつぽつと現れるものなのでしょうか。矛盾しているようですが、インテリ的な態度を批判するのも文学的には王道なのかなと、感想のような疑問を持ちました。
漠然とした質問ですみませんが、よろしくお願いします。
東京藝術大学お嬢様部OGOBさん
①1911年は社会主義者の幸徳秋水らが刑死した年にあたります。啄木は社会主義の思想にシンパシーを抱いており、秋水の裁判記録などを熱心に読み込んでいます。5月にはそれをもとに「’V NAROD' SEIES A LETTER FROM PRISON」を執筆し、『はてしなき議論の後』は6月11日の作品です。ですからこの作品は日本の経済事情というよりは、大逆事件による社会主義者の弾圧という政治事情に触発されたものと考えるべきでしょう。ロシアの言葉が出てくるのは啄木が愛読していた社会主義思想家のクロポトキンの影響です。
日露戦争勝利後の経済は停滞気味になっていきます。これまで成長に邁進していた日本経済の伸びがいったん止まったのがこのあたりで、政府への不満が溜まっていった時期です。大逆事件の前には赤旗事件が起きていますが、社会主義にシンパシーを抱く人々が増えました。政府もロシアから賠償金がもらえなかったこと、戦勝したことにより軍事費のブレーキが利きにくくなってしまったことなどで、外債が膨らみ、収支のバランスが悪化したままの状況でした。戦費調達の特別税が恒久的なものに変えられて、苦しい時代だったと思います。日本が豊かになるのは第一次世界大戦の好景気を待たなければなりません。当時は国際社会から一目置かれるようになっただけで、前提としてそこまで裕福な国ではなかったです。
②社会主義に傾倒するあたり、時代からは浮いていたと言えます。大正デモクラシーでも何でもない思想の自由云々の時代の前なので、その時点で浮いていたのは間違いないです。啄木は今でいう高校中退の学歴で東京に出ました。帝国大学出のインテリへの対抗意識はあったのではないでしょうか。彼らは民衆のためではなく出世のためにその知を使い、民衆のために活動しようとする社会思想家を弾圧しているのであって、義憤が溜まっていたのだろうと思いますが、その感情自体は当時では珍しくないと思います。権力批判という観点からすれば時代の申し子であり、独特なことをしている個性とまでは言えないでしょう。おっしゃる通り、インテリ的な態度を批判することは文学では王道ですし、世界中でよく見かけます。