ターナーって印象派より前に活動していたのに本家印象派のメンバーより印象派チックじゃないかとふと思ってしまうのですが、イギリスはイギリス、フランスはフランスだったのでしょうか。不勉強ゆえ、美術史の中でターナーがポツンといるイメージしかなく、どんな文脈の中にいるのか教えていただきたいです。
2つの流れの源流にターナーはいます。まずは印象派への直接の影響として、1870〜71年の普仏戦争期にフランスの若い画家はイギリスに避難していました。モネやピサロらはロンドンへ移り、その時にターナーの表現を徹底的に学んでいますし、印象派の仕掛け人になるポール・デュラン=リュエルーともその時にあっています。みんな英国帰りで揃ってターナーの薫陶を受けているのです。そして第一回印象派展が1874年ということですが《印象 日の出》はターナーの《ノラム城 日の出》のオマージュという説もあります。
もうひとつはフランス美術の流れとして、ロマン主義の色彩表現というのはやはり英国留学歴のあるドラクロワが牽引しましたが、やはり彼もターナーの作品を見ています。印象派も反アカデミズム(反新古典主義)という点で共鳴し、ロマン派が生み出したものの延長に存在します。その色彩や表現の源流にターナーがいるわけです
ターナー自身はロンドンだけでなくヨーロッパ各地を旅行し、フランスのクロード・ロランやオランダの風景画などを徹底的に研究しています。ロイヤルアカデミーで講義もしており、多数の風景画科の先人たちについて語っているのです。
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もちろん18世紀後半に「崇高」な風景画が流行ったのですが、そこに表現の縁源はあります。ですからターナーは突出していますが、美術史上から孤立している画家だとは思えません。