ロバート・キャパ撮影の《崩れ落ちる兵士》が戦闘中ではなく演習中、もしくはただ単に転んだ瞬間を撮ったものだろうという投稿について、その根拠を教えてください。ロバート・キャパを信奉しているわけではないですが、写真との向き合いの方の参考にしたいと思います。また今後、生成AIによってリアルな映像が氾濫するようになった際には真実という概念が崩壊するのでしょうか。それとも、どこから発信された情報を信じるか(政府・大学・SNS)という判断が思想と化して、世の中の分断が深まるのでしょうか。併せて考察をお願いします。
ホセ・マヌエル・ススペルレギ(José Manuel Susperregui)が2009年に書いた『Sombras de la Fotografía』という本と、それを踏まえたカタルーニャの新聞の調査によってほぼ確定しました。この本を基に写真家の沢木耕太郎氏が真相に迫るNHKドキュメンタリーが2013年に放映されています。
https://www.nhk.or.jp/special/detail/20130203.html
ススペルレギ氏はキャパの遺品を精査し、あの写真の現場は従来のセロ・ムリアーノではなくエスペホという地域だったことを突き止め、そこから考えていくとあの写真が実戦の時に撮られたはずがない(そのエスペホでは訓練こそ行われていたが、キャパの撮影日あたりに戦闘はない)と結論づけました。概ねこの説に反論は出てきていないので、そういうこととして議論は終止符を打たれています。
キャパに限らず20世紀半ばの写真は演出は当たり前です。ドアノーの《パリ市庁舎前のキス》も演劇学校の2人を雇って演出で撮りましたし、玉音放送の次の日に皇居に向かって土下座する写真も新聞社のやらせでした。
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/o/191171/
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真実の概念が生成AIによって変質することは間違いないでしょう。裁判の証拠になる映像や音声データも巧みに作り出せてしまうなら、もはやそれらに証拠能力はありません。簡単に冤罪で対象を陥れることが可能になります。
つまりのところ、素朴な権威主義が復活すると私は見ています。一周回って大学の権威や新聞などオールドメディアが相対的に信頼度を高めていくのではないでしょうか。
あるいは完全課金制による信頼度が担保されたグループによって、真実が(そのグループの中で)共有されるというものです。つまり万人に「真実」がアクセスできず、資本強者とその取り巻きだけが見られるといった形になるのかなと予想しています。集団と階層によって真実が違うというのはまさに分断でしょうが、それが悪いこととは思われない時代になるのかなと。