『「上司に褒められたい」問題:構造と魂を混同すると仕事がしんどくなる』、本当に今求めているものでした。名著です、名noteです。
私自身は人はそんなに褒めないしそんなに感謝もしない(だから自分もやらないではなく)というのが社会人になる前から根底にありました。
ただ、あらゆるものに「期待しない」ことの修行が足りていませんでした。
周囲の動きにならって言い方を工夫しても相手は動かないとか、全く文脈なく軽蔑されるとか様々な経験で、とにかく挨拶と感謝はする冷めた人間になりつつある状況でした。
人がどうこうではなく、目の前にやるべきことがあるから仕事する、で求められている行動はしてきていたつもりなのですが、ポジティブな感情が仕事においてはめっきり減ってしまっており、ただただつらいです。
ぱぴこさんnoteを読んで、信頼できる人が見つけられていないとか、自分で自分のやりきったことを素直に認める時間を持てていないから、魂が摩耗しているのだろうと感じました。
己の魂自体は労いみたいなものを多少は求めている可能性はある以上、そこを踏まえて働く場を変えるがときには必要な選択肢なのでしょうが、その選択肢をとる前に、せめて自分で自分を労うを意識的にやらないと二の舞だなと痛感しました。
すばらしいnoteをありがとうございました。何度も立ち返って読みます。

ぱぴこさん
基本構造はあるものの、当然「文化・環境」はあり、それが合う合わないは別の話ですからね。
しんどくなっていく場所に絶対にいなきゃいけないことはないし、その水が世間的にはエーテルでも、自分にとって毒水なら吐き出して自分にとっての水を飲める場所を見つけていくことが必要なんすよね。
当然、自分がしんどくない場所にいたほうがいいに決まっているんですが、今いる場所がもし「そう」じゃないなら、他人や構造を変えるのではなく、自らが「自分が求める場所」に出ていくことのほうが簡単だし、その意思決定をするべきでは?となるのは、クソみたいな労働市場で自由を獲得するための一歩みたいなもんですよ。少なくとも労働の元に等しく人は奴隷なので…。
もちろん「出ていく」という意思決定が、さまざまな変数により難しい場合もあるでしょう。しかし、その場合にも、そこにあるのは「出る選択と今の場所に居続ける pros/consを比べ、自分なりに意志決定する」ということだけであることに変わりはなく。
例えば毒水だとわかりながらも「それを飲み続ける」決断をする時も同じで「自分が何かしらの理由で、その時に意志決定した」ということは、逃げとか弱さではないですからね。それを「選択した」と自分自身で腹落ちすることが重要だとワタクシは思う訳です。
人間が根源的に有する自由とは「選択、意思決定、決断」だと私は思っているんですよね。その選択と決断の結果の行動がその人個人を形作るので。それが魂の形ってことです。