中田さんご夫婦は子育ての思想が同じ方向を向いていますか?
また、どのようなお考えで子育てをされていますか?
最近娘が生まれました。
夫は「欲しいものは何でも与えて、足るを知る子に育ってほしい」という考え方で、
私は「ハングリー精神を鍛えたいため、与えすぎたくない」という考えです。
相手の考えも理解はできるものの、どのように擦り合わせるべきか、また、どのような考えで育てていくべきか迷っています。
夫と私は国立大学の同級生です。
私は僻地から上京し仕送りなし(学費と携帯代は親に払っていただきましたが)、
夫は大学の近くの実家暮らしでしたが授業料免除になる世帯所得で、奨学金は全て実家に入れていました。
夫も私も、学生時代はお金で苦労をしたものの、現在は安定した職業に就き都内でそこそこの生活ができているという成功体験があるからこその2人の考えだと思います。
(あと、夫は娘のことを可愛がりすぎている気もします)
夫婦での話し合いはできる環境ではありますが、お互い思想が強めで現状歩み寄ることは難しいです。
中田さんのご家庭のお話も聞かせていただけるとありがたいです。

中田:‖さん
お互い主張を持っている夫婦の話し合いって凡そ埒が明かないので他の方法を模索した方が良さそうですね。
まず、しばらくは「合意しないままなんとなく育児を続ける」という方法が取れます。乳児の頃はハングリー精神とかそんなのは関係ありません。いや、もしかしたらおなかが空いて泣く子にあえて食べ物を与えないことによって文字通りのハングリー精神が育つ可能性はゼロではないにせよ、そこまでやることはさすがに質問者さんも考えていないと思います。
この「とりあえず時間を置く」というのはかなり有効で、なぜなら子育てをしている間に考えが変わっていくことは頻繁にあるからです。たとえば私の妻は、子が産まれる前は「キャラものの服はダサいから絶対買わない!」と強い意思を示していましたが、いざ子供に自我が芽生えてキャラもの服を欲しがるようになると瞬時にキャラものの服で溢れるようになりました。大人から見てダサかろうが本人が喜ぶならいいや、と思えるようになったのと、保育園のお友達もみんなキャラものを着ているという事実の前には「我が子だけダサい」という社会的レッテルは回避されているという点が大きかったと見られます。(あと、本論から脱線しますが、最近はキャラものの服もかなりデザインが洗練されていると個人的には思いました。たとえばアンパンマンミュージアムにある服は高いですけどデザイン性も高くて感動したものです)
ここで2つの示唆があるのですが、1つ目は妻が強引に「絶対にキャラものの服は買わない」という意思を通していた時、果たして我が子に「ハングリー精神」が育ったのかという疑問です。私はまずこれが怪しいと思っていまして、自分が欲しいものを買ってもらえないという経験から得られるのは必ずしも質問者さんが期待するような健全なハングリー精神ではないからです。思想が強い親の下に生まれてしまったことへの怨嗟(親ガチャ批判)やら、他の子が買ってもらっているのに自分だけ買ってもらえないことに起因する社会的疎外感や不信感、あるいはそれに起因する「持っているお友達」への逆恨み的な攻撃だったりするかもしれません。どれもよくある話です。お腹をすかせた子が取る行動は往々にして触法行為であることからわかるように、自分の欲望を抑えてでも優先するべき倫理や理性がまだ備わっていない子にとって、飢餓感に起因する行動を律することは難しい上に、飢餓感を満たしてくれなかった親や社会に対して肯定的な気持ちを維持し続けられるかというとそれも容易ではないでしょう。「鬼になってでも子を鍛えるのだ」という方針はそれはそれで世界を見渡せばよくあるもので、特に中華系に多いので「タイガーマザー」と呼ばれていたりするわけですが、それを目指しているのかというところが一つのポイントになります。
もう一つの示唆は、「貧しい」かどうかは周りの子との相対的な問題だということです。絶対的貧困と相対的貧困は予後が異なるという言い方もできるでしょう。給食の量がみんな同じように少なければ、それは絶対的貧困であっても相対的貧困ではないので、「もっとみんながお腹いっぱい食べられる社会にしたい!」のような健全なハングリー精神は育ちやすいかもしれません。しかし与えられる給食が自分だけ少ない場合、「社会のために頑張ろう」のようなハングリー精神が育つ可能性は低く、むしろ自分だけ少ないことに対する社会への不信感や怨嗟の方が溜まりやすい可能性があります。「ダサい服を着ている」ことも、自分だけダサいならもしかしたらいじめられたりするかもしれませんが、みんなダサいならむしろ仲間意識が醸成されたりするかもしれないのです。社会的立場は服それ自体では決まらず「周りがどんな服なのか」によってその意味が変わるのと同様に、育まれるハングリー精神も相対的な”与えられ度”によって大きく異なります。
この相対感を醸成するためにも「とりあえず時間を置く」ことが有効で、なぜなら我が子の周りがどんな家庭なのかは事前にコントロールすることが難しいからです。もちろんある程度は可能ですが、いざ我が子のクラスメートのどんな子と仲良くなるのかは親がコントロールできる範囲は狭いと言わざるを得ません。そして我が子の場合、たとえば周りの子がスマホを持っている率が非常に低いので、ありがたいことにスマホを欲しいとは言いだしていないんですよ。Xでしばしば話題になる「子供にスマホを与えるべきか論争」の肯定論のほとんどは「周りの子が持っているなら自分の子も持たないとかわいそう」という相対的貧困論です。逆に言えば周りの子が持っていなければ我が子にまで持たせる正当性は薄いということになります。(翻って我が子の周りはSwitchを持っている子が多いので我が子はSwitchを欲しがるようになっており、これは買ってあげようかなぁなどと思っている最中です)
というわけで、質問者さんが鍛えたい”ハングリー精神”も、どこまで与えれば/与えなければそれが醸成されるのかは現時点で定義不能だと思いますので、いま合意しなくていいと思います。いま合意することはできないという言い方もできます。しばらく放っておきましょう。そして、保育園・幼稚園・小学校などのママ友パパ友と話す機会を意識的に作ると良いですよ。夫婦で周りの親の話を聞くことで、「ああいうのはいいね」「あれはナシだね」「あのお友達の中なら安心かな」のような会話の中から夫婦の方向性が収斂していくことが期待できます。
我々夫婦の場合、お互いに田舎育ちの国立大同級生ですが、妻の方が経済的には豊かな実家に育ち、私の方は貧しい家庭に育ちました。妻は実家の方針に満足していて私が満足していなかったこともあり、子に対するスタンスは「欲しいなら与えよう」で凡そ一致しています。ただ、子供の「欲しい」にはかなりグラデーションがあって、大して欲しくないものもとりあえず「欲しい」と言っておくみたいな行動も見られるので、一定期間時間を置いてからそれでも欲しいと言い続けるものは与える、のような工夫はしています。ハングリー精神が云々というより、自分が本当に欲しいものを見極められるようになってほしいという思いがあります。そして、体力、学力、友人、処世術など、お金では直接的に買えない大切なものも多くあるわけで、そういうものを獲得するためのハングリー精神が育ってほしいと思っています。